源氏物語の京の都。
夕顔の亡骸は源氏の乳母(大弐の乳母)の子惟光の機転で、東山清水寺近くの知人の尼の庵に運び込み、経を上げて、近くの鳥辺野で火葬しました。火葬できるのは貴族であり、庶民は土葬か風葬でした。焼くための薪を買うことが出来なかったからです。桐壺の更衣、夕顔、葵上、柏木も鳥辺野で火葬されています。
源氏が夕顔を連れ出した某の院は、左大臣源融河原院という別荘らしい。彼の死後、宇多天皇に献上され、926年には融の亡霊が現れたということで、その後、荒れ果てた廃院になってしまった。大邸宅です。
慶滋保胤の「池亭記」によると、十世紀の終わりには、もともと湿地帯で人気のなかった右京は過疎化が進み、逆に左京は過密化していきました。しかも、左京の四条以北に住宅が集中し、上級貴族は二条大路(幅51m)よりも北側。例えば道長の邸宅、土御門殿(道長の正妻源倫子の父親左大臣源雅信の邸宅に、妻方居住婚により、道長も住んでいました。ここが彰子の実家であり、彰子は敦成アツナリ親王、後の後一条天皇を生み87歳の長寿を全うしました。紫式部は40歳前後で亡くなったと言われています。)は土御門大路の北、萬里小路の西。後に道長はその更に北の一条大路に面して邸宅を建てました。
公卿は一町ヒトマチ、四丈四方120m四方約4400坪の敷地。源氏の六条院は四町約17500坪。夕顔が連れ込まれた廃院河原院は8町約7万坪。東京ドームが5個入る敷地面積。それはそれは、夕顔は心細かったに違いない。庶民は、一戸主ヒトヘヌシといって間口五丈15m奥行十丈30m、136坪と定められていました。夕顔が方違えのために居た五条の敷地が、この大きさ。
源氏物語の主人公たちは二条か三条に邸宅を構えています。左京の東西にのびる五条大路辺りは庶民の住宅地であり、南北にのびる東洞院大路との四つ角に源氏の乳母の住宅と隣地に夕顔の隠家がありました。夕顔の住宅から北に5.5kmほど上れば二条大路南に源氏の二条院があります。更に、夕顔の家から五条大路を東に500mほど行けば某の廃院があり、その廃院から萬里小路を南に250mほど下れば、六条御息所の大きな邸宅があります。のちに、源氏35歳のとき、この宅地も含めて広大な六条院の邸宅を建てます。四分割して、南東は春の雰囲気の庭で紫の上。北東は夏の雰囲気で花散里。南西は秋の雰囲気で秋好中宮。北西は冬の雰囲気で明石の上を、それぞれ住まわせました。
これほど近ければ、生霊と言わずとも、また六条御息所本人でなくとも、彼女の女房が夕顔のあとをつけて、僅かな警護をかいくぐって、寝室に忍び込むことくらい出来そうに思えますね、火曜サスペンス劇場です。仕える主人の命運はそのまま従者や女房達の命運に繋がるのですから、彼女たちは必死でした。夕顔の寝室に源氏をおびき寄せたのも、夕顔の女房達でしたから。夕顔の巫女性、遊女論については、次回お話します。
鴨川は都の東側を守る守護神と考えられていましたので、次第に鴨川の東に皇族や貴族の邸宅が出来るようになっていきました。更に北東には比叡山があり、東には音羽山があり、六条辺りは地価も安いので、住宅はそこら辺りまでは広がっていきました。九条大路には、東寺の塔が聳え立ち左京を見下ろすようにして、守っていました。七条大路と大宮大路の交わったところには東市があり、物流盛んな市場が開かれていました。
対して、右京つまり西の京は廃れていくばかりでした。夕顔の女房右近が玉蔓のことを「かの西の京にて生いいでたまはむは、心苦しくなむ」と、その生い立ちを憐れんで嘆いていたのも頷けます。