仮名「五十音図」というのは、江戸時代の呼称です。平安朝の母音配列順序は「イ・オ・ア・エ・ウ」(孔雀経音義)「ア・エ・オ・ウ・イ」(顕昭の古今集註)「阿・宇・伊・乎・衣、ア・ウ・イ・オ・エ」(管弦音義)などさまざまでした。悉曇学(しったんがく)という梵字の音韻学があり、天台宗僧侶の明覚が「悉曇要訣」1101年を著し「五十音図」を作りました。「ア・イ・ウ・エ・オ」の母音配列は明覚(みょうがく)が採用して、鎌倉時代以降、その配列に統一されました。平安時代の初期に歌人源順(みなもとのしたごう)が「あめつちの歌」を作り、それが、広く手習い用として使われました。
「天 地 星 空 山 川 峯 谷 雲 霧 室 苔 人 犬 上 末 硫黄 猿 生ふせよ 榎の枝を 馴れ 居て」(あめ つち ほし そら やま かわ みね たに くも きり むろ こけ ひと いぬ うへ すゑ ゆわ さる おふせよ えのえ(ye)を なれ ゐて」(あめつちの歌)
有名な「いろは歌」は平安中期に作られ、浄土教「市の聖」と呼ばれた僧空也(くうや)が民間教化のために、これを広めたと言われています。
万葉仮名の出来る100年前に、日本語を漢字で表した文章があります。法隆寺金堂薬師仏の光背銘です。終わりに「歳次丁卯年仕奉」と記されています。これは漢文ではありません。「ほしひのとのうに やどるとしに つかへまつりつ」と読みます。(「丁卯年607年に寺と薬師像を完成なさった」)ほぼ日本語の語順で書かれています。補助動詞による敬語法や天皇自ら自分に敬語を使う絶対敬語など、日本独特の古代文法も全文の中に見受けられます。ですから、中国人には読めません。用明天皇の病気快癒祈願のために建立が始まったものの、途中で崩御なさったので、推古天皇と聖徳太子が意思を継いで、法隆寺・薬師像を完成させた。と光背に書かれているので、由来が分かります。記録はありがたい。
大化の改新以降、官僚の文字の記録が必要となります。このように漢字を使って和文を書くという方式は平安時代も続きます。藤原道長の「御堂関白記」と呼ばれる自筆日記が残っています。「具注歴(ぐちゅうれき)」という吉凶占いの暦を暦博士が毎年11月に翌年の分を作ります。道長も、この暦に日々の出来事を記入していました。しかし、当時のエリートは漢文でも文章を書いていました。中国人も読むことが出来ます。続日本紀などの歴史書、三代格式などの法令集、和名抄・医心方などの学術書も、権威のある漢文で書かれています。
高校で漢文の訓読を習いました。返り点という符号を使い、助詞・助動詞・活用語尾を小さな片仮名で表しました。この訓読のために片仮名が発達することになりました。万葉仮名の一部分を取って複数の種類の片仮名が出来ましたが、10世紀半ばには片仮名の体系が整いました。平安時代の終わりには、漢字片仮名交じり文という様式になって「今昔物語集」が生まれました。結局、日本人はこの様式を採用したことになりますが、片仮名とは違う思想によって成立した文字があります。それは、平仮名です。万葉仮名を部分ではなく連続体と捉えて書き崩して平仮名を作りました。平仮名は「女手(おんなで)」と呼ばれ、男性でも女性に手紙を出したり、和歌を詠む場合は平仮名を使いました。女性が漢字を書くことは不謹慎だと考えられた時代なので、女性たちは自ら発明した平仮名を使うしかありませんでした。また、男女はお互いの恋の思いを、すぐさま和歌にして相手に渡さねばなりませんので、和歌の発達がそのまま平仮名文の成立に繋がりました。平仮名の文章と言っても、当時は促音「っ」を表記しないので、例えば「にき」ではなく「日記」また、「ゃ・ゅ・ょ・ゎ」の拗音も表記しないので、「きゃう」ではなく「京」、「ぐゎん」ではなく「願」と漢字で記しました。
平仮名の良いところは、話し言葉そのままで書けるというところです。そして、ついに物語・随筆・日記という散文の文学が成立することになります。日常会話で感情や気持ちを、自由に表現することが出来ます。漢字文ではない和語の柔らかい語り口調で、女性作家が活躍しました。その頂点に立つのが源氏物語です。
「源氏物語」が優美なのは、単なる話し言葉で書かれているのではなく、「古今和歌集」の素養を基に、和歌の技法や言葉を多く取り入れているからです。古今集の和語を巧みに使っています。その古今集を編纂した紀貫之は万葉集を研究・参考にしています。万葉集での文字は万葉仮名であり、方言も含めて古い和語を活かして記した古事記も原典であり、天武天皇・稗田阿礼の思想が源氏物語まで流れています。とは言え、奈良時代に存在した多くの和語の音が平安京遷都と共に消失していきました。平安時代の終わりには、ア行のオとワ行のヲを転倒して記すなどの混乱が見られ、そのことに江戸時代前期の契沖も気付きませんでした。後に本居宣長が、その入れ違いに気付き訂正しました。源氏物語は和歌に鍛えられた文章なので、美しい和語が残存し、宮廷内の紫式部サロンで貴族好みの京ことばで語り詠みされましたので、古事記・万葉集と並んで言語学的にも古代大和言葉の一級の資料と考えられます。
しかしながら、平仮名を中心とした文章は読みにくいのが難点です。宗教・政治など抽象的な概念を表すには漢語が必要になります。源氏物語には神事の頂点に立つ天皇をはじめ高級官僚が多く登場しますが、仏典の解釈や政治内容の話は、皆無と言ってよいくらいです。源氏物語は男と女の恋愛の精神世界を平仮名によって、深く表現しています。漢文の持つ論理的な思考よりも、人間の心理の動きや感情を表現するには優れている平仮名であったからこそ成功した文学だと言えます。
当時、小野宮右大臣 藤原実資という人が日記を書いています。「小右記」と呼ばれます。蔵人頭と左近衛中将を兼ねる人物の書いた手紙が記されています。その人のことを、頭中将と言います。(源氏物語では光源氏の親友であり恋敵です。光源氏はその頃は公卿参議で宰相中将でした) 彼は宰相中将宛に手紙を書いたのです。内容は、愚痴ばかりです。「職務があまりにも多忙なので、好きな蹴鞠や囲碁などの遊びを楽しむ時間もありません」と訴えています。このように、現実は多忙な仕事に追われており「雨夜の品定め」などと悠長に恋愛談義などをしている暇はなかったようです。源氏物語は、お仕えするお姫様中宮彰子や女房達に関心を引くような、女たちのための物語であり、女性である紫式部が政治とは関わりなく、ひたすら男女の性愛の世界を描いています。しかし、女性たちにとっては、一族の存亡が女たちの活躍に関わっており、天皇をはじめ、高級貴族の男性をいかにして、自分たちの局サロンに引き込むか、という、寧ろ男たちの政治以上の手腕が求められた女たちの闘いの物語でもありました。源氏物語は、いい男をゲットするための女性にとっての特別な「指南書」だったのです。