「和」とは、大和の国、日本の「わ」であり、心は和む(なごむ)、和やか(なごやか)、和らぐ(やわらぐ)のであり、美味しい食材を和える(あえる)と幸せで、波は穏やかな和ぎ(凪)の状態であり、気持ちが和(のどか)なさまのことです。
「和」のイメージは女性です。女性のことを、奈良時代は「をみな」平安時代には「をんな」と呼びました。小川(をがわ)の「を」と同じで、「を」は「小さな」「み」は「女性」という意味です。老女は「おみな」「おんな」です。「を」と「お」は本来、発声音も違っていました。
池波正太郎が「男か女か分からない格好してたら、本当に、男か女か分からなくなっちまうよ」と言っていましたが、これは、現代に始まったことではありません。
上代(飛鳥時代後期から奈良時代)から、男女不明の姿をした人が、地域の伝承物語を歌舞によって、神社などを拠点にして神の心を癒し、人々を喜ばせている古い芸能者がいました。彼らは、俳優(わざをき)と呼ばれました。
一方、天の岩戸の前で踊った天宇受売命(アメノウズメノミコト)の子孫と言われる猿女君(サルメキミ)が巫女として神楽を舞い、物語歌謡をうたっていました更に猿女君の子孫に稗田氏がいます。そのうちの一人が舎人(とねり)の稗田阿礼(ヒエダノアレ)です。
天武天皇は、口承物語や歌謡を記録に残すために、古事記編纂を志しました。大和朝廷の公式な史書に「古事記」という書名は登場しません。朝廷公用語の漢文は使わずに、和語によって古歌や大和言葉の伝統を伝えるために、天武天皇は個人事業として古事記に着手したと思われます。
稗田阿礼は俳優や猿女君から、神話・伝説・歌謡を蒐集しては、習い覚えていきました。言葉は、事実や意思を伝えるためだけではなく、人間の精神世界を表現するためのものです。
天武天皇崩御から元明天皇の撰録の命を受けるまでの25年間、稗田阿礼は、毎日口唱を繰り返してきました。その長い間に、稗田阿礼の気持ちや考えが古事記には反映されているはずです。女性的な視点も散見されるからです。ところが、天皇に近侍する舎人は、大宝令では、男性の官職になっています。おそらく、稗田阿礼は男装して天武天皇の代弁者として朗々とした男声で詠んでいたに違いありません。
「天宇受売命、~神がかりして、胸乳をかき出で裳緒(もひも)を陰(ほと)に押し垂れき」(アメノウズメノミコトは、~神憑りして、両手で衣の胸元を大きく押し広げて、掻い出した乳房を揉みしだき、腰から下にまとっていた裳を脱ぎ捨て、解いて垂らした裳の紐で自身の陰部をチラリと見せたり隠したりした。)と古事記の天の岩戸の場面ですが、これは巫女でもある稗田阿礼自身が踊ることが出来るからこそ、精細に鮮明に描かれています。稗田阿礼は「をみな」です。研究者の西郷信綱と私は同じ考え方です。
神様が地上に降下なさる「依り代(よりしろ)」として、神木や苔むした岩が、日本中に存在します。山そのものがご神体となっている聖域もあります。そのような自然神と関わる太古から、原始巫女はいました。「元始、実に女性は太陽であった」と述べた平塚らいてう、の気持ちはわかります。
倭国とは、小さい国という大和を蔑視した言い方です。天武天皇は敬意する聖徳太子の意を継いで我が国を「日本」と名付けました。儒教を重んじた兄の天智天皇、子の大友皇子は漢詩に優れました。二人とも唐の文化に憧れ、強く文化導入をしていました。大海人皇子は大伴氏の協力を得て壬申の乱に勝利しましたが、そのお陰で日本民族の誇りを維持し、日本語の成立や「国風歌舞」(くにぶりのうたまい)と言われる日本各地の歌や舞の文化が存続されることになりました。天武天皇のお蔭で、古事記・万葉集が成立したのであり、もしも、壬申の乱で敗北していたならば、源氏物語すら成立せず、猿楽や能楽の誕生もなく、日本はどのような国になっていたことでしょう。
天武四年二月、勅により「よく歌う男女を、宮廷の学府に集め」させ、雅楽寮が設立されました。天皇の職務は、本来は政治ではなく、神事です。平安時代末、白拍子(歌舞に優れた巫女)が現れる頃まで、古代から神事と関わる巫女たちは天皇と共に、日本の文化を支えてきたのでした。
女性が女性であることと、女性が女性らしくあることとは、根本的に違います。
生物学的に雄ではなく雌であることと、その時代の社会形態や文化の中で、女性だと認められることとの違いです。もっと正確に言うと、「女性らしくあること」とは、女性が、男性にとって異性として関心を持つ対象になっている女性であるということです。紫式部は、男に気に入られる女であるための教科書を、1000年も前に長編心理小説として書き上げました。 紫式部はなぜ源氏物語を書こうと思いつき、書き続けたのか。何を伝えたかったのか。源氏物語の読者はどのように享受してきたのか。考えていきたいと思います。
鴨長明直筆の「方丈記」は現在でも残っていますが、ほとんどの古典原本は存在していません。その代わりに「伝本」と呼ばれるさまざまな写本が残存しています。紫式部の書いたオリジナルの源氏物語は、もう存在していません。しかし、鎌倉時代になって藤原定家が写本を整理してひとつにまとめました。それを「青表紙本」系と言います。そのお蔭で、奇蹟的に我々は源氏物語を読むことができます。しかも、日本人であるので、外国の方よりは感性のレベルでは理解しやすいと思えます(Donald Keeneさんのように、日本伝統文化を愛し熟知されている研究者もいらっしゃいます)。しかし、1000年前の作品なので言葉が違います。古典文法と言って助動詞の接続や敬語法などを昔学校で習ったはずですが、結局、源氏物語にわずかに触れておしまいだったことでしょう。源氏物語現代語訳全巻を読み通すことが出来たのであれば、あっぱれです。ですが、あまりにもこの作品は長いために、少し時間をおいてしまうと細かい内容は、直ぐに忘れてしまいます。再度読み直しに挑戦する意欲は、なかなか湧いてこないものです。
紫式部の子孫には天皇もいらっしゃる。なんと、令和の今上天皇にまで続いています。彼女の家系図を見ると先祖たちの栄光がありながら、現状では、年の離れた受領の夫を亡くして子持ち未亡人に過ぎない紫式部が、宮廷サロンで人気を博して、ライヴによる源氏物語の語りの世界を演出していきました。
これから、「和語」「巫女」「紫式部」の世界を語っていきたいと思います。
つづく