「話にならない」という表現はありますが、「語りにならない」という表現はありません。起承転結のまとまりを欠いた「話にならない」という「話」があり得るのに対して、「語り」というものは、そもそも、まとまりを欠いた「語り」というものが存在しないのであって、「語り」というからには、まとまった統一のある内容を、暗に示していることになります。ですから、「語りにならない」という表現そのものが、形容矛盾になります。また、「話のすじ」が分からないと言うような表現もあります。しかし、「語りのすじ」という言い方はありません。「語り」とは初めからきちんとした一定の「すじ」を持っていることを、語り手と聞き手が、お互いに暗黙の内に了解していることになりますから、その「すじ」を相手が分からないと言うのであれば、そもそも、相手は語る対象ではないということを意味しています。このように「語り」とは、完成度の高い内容を持ち、しかも、語る相手にはその内容を理解するだけの十分な素地があるということになります。この「語り」という技術を駆使して、人類は文字がなくても「口頭伝承」という文化を作り上げてきました。
1964年に出版された本田勝一の「ニューギニア高地人」という本を読んで、もう内容は忘れてしまいましたが、人間は文字がなくても、それなりの文化を築くことは出来るものなんだ。と幼いながらも私はニューギニアという島に関心を持ちました。大学院生のときに言語学研究のためにパプアニューギニアを訪れました。首都ポートモレスビーから、遠く離れたすさまじい山の中の村に私は入り込んで、一時行方不明者扱いにされていたようですが。しかし、ギャングはいませんし現在よりもむしろ治安はよかったように思えます。
語彙の採録を始めて、まず発見したことは彼らには「時間」の概念がないということです。概念がないということは「時間」に相当する言語がないということです。本田勝一の言う通りここはとんでもないところだ、と後悔し始めた頃、喜ばしいことに彼らの話す言葉の中に日本語と語順が同じ表現を見つけて妙な安心感に浸ることができました。当時、人間の文化程度の指標として、どのくらいの数の文字を有効に使用しているか、という考え方がありましたが、文字そのものが無いとなると、かなり文化程度は低いと思っていました。ところが、ギッチョンチョンこんなに優れた高度な文化を持った民族が存在するのだということを、後に知らされることになりました。偏見に対する疑義は自らが経験して思考することが肝要です。
部族には必ずと言っていい程、先祖伝来の「言い伝え」というのがありますので、しかもある程度彼らは暗記していますので、それを語ってもらえさえすれば、ひとつひとつの言葉を採録していくには都合がいいのです。私は高価な録音機を借りて持参していましたが、電池などを紛失していましたので、使用不可でした。もちろん電気などは通っていません。そこで、何度も反復して語ってもらうしかありません。部族長から紹介された老女が語り役でした。何度か語ってもらっているうちに気が付きましたが、最初から、同じ表現同じ語り口調で、山場がくると、声色を変えて手ぶり身振りで、豊かな表情をもって語ってくれていたのです。そばでは、おそらく選任された楽師のような役割の年齢不詳の二人の男性が瓢箪で作ったと思しき打楽器と太鼓で、語りに合わせて拍子をとっていました。ひとつの物語を語り終えるのに約4時間、お願いすれば全く同じ内容の物語をほぼ同じ時間を掛けて語ってくれました。恐るべき暗記力です。これだ! と私は確信しました。この時思い浮かべたのは、稗田阿礼でした。では、ほかの物語はいくつくらいあるのか尋ねてみると、部族のお祭りのときの定例の物語、天体の運行や星の動きによって語るべき物語、神様の暗示によって語らなければならない物語、と整然と決められており、私には「初対面の者」に語らねばならない物語3つを語ってくれました。老女の人生で、産後の赤ちゃんや稀に他の部族から婿をもらった時以外には初対面の者は少ないらしいので、私には珍しい物語をしてくれたことになります。約42の物語があるそうで、勝手に計算すると時間にして約170時間を超えるであろう物語を老女は、すべて暗記していることになります。しかし、そのすべてを確認することは出来ませんでした。筆記具を持って記録していた私の暗記力・記憶力が老女に及ばなかったからです。
老女は長い間稽古を毎日繰り返して身に着けたようで、語り物語の後継者として、やや若い女性も老女の世話役として傍についていました。村には通訳の青年?男性がひとりいましたので、なんとか不安なく生活できました(ほとんど、聞き取れないような英語ではありましたが)。約4カ月を彼らと共に過ごして、途中私は奇怪な皮膚病に罹りましたが、薬草?で老女に治してもらい、それから研究者であるオーストラリア人のいる村まで、その青年に送ってもらいました。
彼らは皆、人格者であり、哲学者でした。文字がないが故に優れた記憶力を持ち、想像力があり、表現は豊かであり、自然と融合し、自然に畏敬と感謝の祈りを絶やさず、来訪者には親切でした。また、天体の運行を知り、薬草を巧みに使い、食物を大切に保管する術を知り、喧嘩をすることはなく、皆仲良く助け合い、祭りを楽しみ、踊りが上手で、よく笑いました。もしも記録のための文字があれば、伝達はずっと容易になるはずですが、もしも記録した文書をなくせば「物語」はそこで消失します。また、文書内容が改ざん補足加筆省略などされると、本来の原形物語ではなくなります。「口頭伝承」の文化というものがいかに着実で確実であるかがよくわかります。しかしながら、後継者がいない場合には消滅してしまいますので、日頃からの教育が、いかに必要であるかが分かります。
文字がなければ、人間は何千年もの間、知恵を尽くして語り伝えることが出来るのです。そして、記憶のためには、楽器の演奏や手ぶり身振りの踊りも有効であることも分かりました。芸能の多くは、そのようにして何百年もの間、確かに伝えられていますものね。