書き言葉の時代へ
個人から集団の精神世界を「言い伝え」として次世代へ伝えていくために、気の遠くなるほどの時間を「口頭伝承」という方法に頼って伝えてきました。血縁者の一子口伝という形式を取ることが多いのです。人間には血縁幻想があり、何百年もの間脈々と祖先からの能力や思想を自分自身が受け継いでいると信じれば、強い責任感と使命感を持って「口頭伝承」に命すら捧げます。一子口伝と言っても常に子供が存在するわけでもなく、実際は養子や指名によって受け継がれます。しかし優れた語り手が常に存在するとは言えず不慮の死でもあろうものなら、伝承は途切れます。そこで、人間は教育という方法も使って複数の語り手を育成します。伝承が長く続いた集団は優れた教授法と育成法も熟成してきました。教育学の歴史は、ほぼ人類の歴史と同じです。そこで、記録に残せば効率的に、しかも多人数に教育を行うことが出来るということに、賢い人間ならば直ぐに気付きます。絵は手間がかかり抽象的です。話し言葉は時間と共に変化することも人間は知っています。その変化にも対応できるもの、それが「文字」でした。日本人は文字を創るのか、それとも他国の文字を利用するのか。日本人は既に存在していた漢字を利用することにしました。
日本の隣には中国という文化国家がありました。紀元前1500年頃に発生した漢字を手本にして、日本の文字として借りることにしました。
現代でも、日本では地名や人名の読み方が分からないことがあります。文字を知っているのに読めないという現象が起こる不思議な国です。古事記も音読することは難しい。中国語は意味を持つ単語の順序で文法を構成する「孤立語」という言語です。日本語は助詞・助動詞が多く、それが意味を持つ単語に付着して文法的役割を示す「膠着語」と言われる言語で、中国語とは全く体系の異なる言語です。古事記の表記に苦労した太安万侶(おおのやすまろ 昭和54年奈良市で「太安萬侶 養老7年」と刻まれた銅板の墓誌と遺骨が発見されて、実在が証明されました)が「漢字を使うと心の思いを十分に表せない。漢字の音を借りて述べると文章が恐ろしく長くなる。そこで漢字を表意文字と音だけとを混ぜて書きます」と古事記の序文に書いています。日本語の表記や読みが世界で最も複雑と言われているのは、ひとつの漢字を複数の読み方で借り入れたからです。すべては、太安万侶さんに始まっています。
万葉仮名
中国語にはない助詞・助動詞や人名などの日本の固有名詞をどのように表すか。一字一音の考え方で、漢字の意味は考えずに、漢字の「音」だけで日本語を表記することにしました。
古事記本文の初めに「天地の初めの時~浮かべる脂のごとくして、水母(くらげ)なす漂える時に」の「クラゲナス タダヨエル」を「久羅下那洲多陀用弊流」と記されています。効率の悪い表記ですが、やがてこれが日本固有文字の「平仮名」に進化していきます。
早稲田大学大学院(心理学専攻)
メルボルン大学大学院(言語学専攻)
文学修士。大学教員を経て、株式会社 BrainTrust 設立。
代表取締役現在に至る。